傷跡『傷跡』船乗りというのは、なぜか自分の傷跡を自慢にするやつが多い。 中には盲腸の手術跡を剥き出しにして、 『これは、体長2メートルのサメと戦ったときの傷だ。』なんて、真顔で言ったりする。 私はまだ子供だったから、ごくごく素直に感心して見せる。 そうすると、彼らはますます熱心に、傷の由来を話してくれる。 たいてい2メートルだったサメは、だんだんでかくなり、終いには10メートルを超える人食いざめに変貌する。 陽気な彼らの中にあって、たった一人、物静かというか、船乗りには珍しいほど陰気な人物がいた。 ところが、私は見てしまったのだ。 彼のおなかに、見たこともないほど大きな傷跡があるのを。 『うわあ。すごいねえ。』 私は目を丸くしてその傷跡を見た。 こんな傷跡が残るような、どんなすごい冒険をしたのだろう? 私は無邪気にその話をねだった。 最初は渋顔だった彼も、たまたま暇をもてあましていたのか、ぼつりぼつりと、私にその傷の話をしてくれたのだった。 『俺が子供の頃の話だ。』彼は話し始めた。 当時俺は、ものすごい笑い上戸だったんだ。 箸が転げてもおかしいなんていうが、俺ときたら、箸を見ただけで笑っちまうようなガキだった。 他の奴でも笑っちまうような場面にあったら、それこそ、腹を抱えて、息もできないくらい、ひいひい転げまわって笑っていた。 そうするとな。 俺の腹はパンパンの蛙の腹みたいに膨れ上がったものだ。 おそらく笑ってるときに、息を吸い込みすぎるんだろう。 それは、小学校で、走り幅跳びのテストがあった日のことだ。 俺は助走をつけて走り始めた。 走っているうちに、なんだかむずむずと、笑いの奴が、足の裏の方からやってくるのがわかった。 自分が飛んでその後、太ったアヒルみたいに、しりもちをつくシーンを、うっかり思い浮かべてしまったんだ。 いけない集中しなきゃ。 俺の鼻の穴が大きく広がって、ふがふがと息が詰まった。 こういうのも、鼻で笑っているって言っていいだろうか? そんな笑い方なのに、俺の腹は、もう膨らみ始めていた。 仕方がないじゃないか。そのまま走って俺は飛んだよ。 そうしたら、それが起こったんだ。 俺は宙に浮いていた。 飛んだんだから、あたりまえといえば、あたりまえなんだが、そのときのは、まさしく浮いてるって感じだった。 ばっと砂を蹴散らして飛び上がった俺は、そのままふよふよと漂っていった。 ずいぶん長く感じたが、実際はどのくらい飛んでいたのかはわからない。 先生も友達も、みんなあっけにとられて俺を見ていた。 ふわぁんと足が地べたに付くと、俺は想像していたとおり、太ったアヒルみたいにしりもちをついていた。 『8メートル90』 ラインから、俺の尻までの距離は、当時の世界新と同じだった。 どんな騒ぎになったかは想像してほしいな。 それからというもの俺は、笑うたびに体が浮いちまう体質になった。 俺は普通の状態でも、ニヤニヤしているような奴だったから、しょっちゅう足の先が、地べたから数センチばかり浮きあがったりしていた。 少し早歩きしてからふっと浮かぶと、そのまま数メートル先まで、浮かんだまま前進できて、楽だしなかなか気分がいい。 親は心配して、俺を近所の病院へ連れて行ったが、俺が赤ん坊の頃からの主治医のじじいは、俺の腹に聴診器を当て、熱を測り、少しばかり舌を引っ張ってみた後。 『別に問題はありません。しごく健康体です。』と言って、なぜかじじい自身が薬を飲んでいた。 もともと楽天家の俺も親も、それであっさり安心しちまった。 ニヤニヤ笑っている程度ならほんの少しだが、わははと大声で笑い出すと、俺の体はどんどん軽くなって、まるで風船のように浮かびだす。 そのたび、俺はじたばたと手足を動かして、どうにか地面に戻ってくる。 浮かぶのは簡単だが、降りてくるのはどうも簡単ではない。 プーっと噴出そうもんなら、俺の体は、ひゅうと軽く、友達の頭の高さより高く浮き上がってしまう。 そのたび、俺は足を引っ張って、下ろしてもらわなくちゃならない。 それでも浮かぶって言うのは、文字通り心もうきうき楽しいものだ。 俺は得意の絶頂だった。 一度俺は爆笑して、われに帰ったときには、家の屋根の高さにいたことがある。 俺はゆらゆらゆれながら、そのままゆっくりと浮かんでいく。 空は抜けるように蒼く、空気は少し冷たくて、まるで水中を泳いでいるようだが、間違いなく、俺はそのとき空を飛んでいたんだ。 最高だ。俺の笑いはますます深くなる。 俺の体はどんどんと、地べたとおさらばしていく。 まるで空に吸い込まれそうだ。 ところが、そう思ったとたん、俺の笑いは引っ込んだ。 俺はひやりとした気分になった。 このまま浮かび上がっていったら、どこまで行くのだろう? 二度と降りてこられなくなるんじゃないか? そのとき初めて、俺はなんだか心細くなった。 とっさに電線に手を伸ばしてつかまった。 笑いをとめても、俺の体はまだ浮き上がっていこうとしていた。 電線だけが、俺をつなぎとめている。 まるで糸の切れた凧だ。 凧とおんなじように、俺も電力会社の人間に下ろしてもらうまで、そのまま電線につかまっていたんだ。 それ以来、俺は用心するようになった。 何がって、笑わないようにだよ。 でもそれは、俺にとっちゃあとんでもなく大変なことだった。 それでも俺はがんばったよ。 ニヤニヤもよし、クスクスもよし、気をつけていれば、わはは笑いだっていい。 俺が警戒するのは、噴出して腹を抱えて笑っちゃうようなやつだ。 俺は人が変わったみたいに笑わなくなった。 笑いたくなると、自分の腕や足をつねって我慢した。 でもなぜだろう? 笑っちゃいけないと思うと、ますます可笑しくなるのは? その日も良く晴れていた。 俺は、建て替えをしている近所の家を見に行っていた。 大工から、木切れをもらって、それで舟を造る気だったんだ。 近くまでよると、電動のこぎりの音や、釘を打つ音でいっぱいだ。 俺はさりげなく、そこら辺から気に入った木切れを失敬しようとしていた。 そのときだった。 ウ~ウ~ウ~というお昼のサイレンが響いた。 棟梁らしい白髪のおっさんが、 『飯にすべえ!』と声を張り上げた。 俺はその声に、はっとなって、おっさんを見上げた。 本当にいい天気だった。 陽は真上にあった。 おっさんは声をかけた後、暑い暑いといいながら、なんと白髪を持ち上げた。 鬘だったんだ。 その下の頭が、陽の光をはじいてまばゆいこと! おっさんは、首から提げていた手ぬぐいで、くるりと、禿頭を拭いだした。 まったくたまらない光景だったぜ。 俺はクの字型に体を追って、声も出せず悶えた。 息がひゅうひゅう鳴って、俺の腹がぎゅうぎゅう捻じれる。 ひくひくと体が痙攣した。 『あは!がは!はああはあっ!』 俺の声は言葉にならない。 俺の体は、よく振ったシャンパンのコルクみたいに、 しゅぽ~~~っん!! いきなり、空中に投げ出されていた。 あんなに高いところまで浮き上がったのは初めてだった。 家や車がミニチュアみたいに見えるんだ。 人間なんて、虫けらの大きさだ。 俺の周りには、つかまるものも、浮いていくのをさえぎるものもない。 ただ空気だけ。 そんな中で、俺の笑いはなかなか引っ込まない。 背中を冷たい汗が伝うくらい怖いのに、それでも笑いが止まらないんだ。 今まで我慢していた、笑いという笑いが、そのとき、発作のように俺に襲い掛かっていた。 俺の周りが白っぽく、うっすらと霧がかってくる。 雲の高みまで達したんだ。 今すぐ笑いを止めるんだ! 俺は泣きながら、ひいひい笑っていた。 俺の腹は膨らみすぎて、まん丸になっている。 それと同時に、足や手がだんだんその丸の中に吸収されていっている。 より風船のようになっているんだ。 あかんぼみたいに、小さくなった手足をばたつかせても、俺の体は浮いていく。 俺は笑いながら叫んでいた。 あの時、大ガラスが俺を突かなかったら、どこまで行っていたのかわからない。 もしかしたら、大気圏まで行っていたかもしれない。 そうしたら、俺は二度と帰ってこれなかっただろう。 それとも俺を回収しに、誰かが、ロケットを飛ばしてくれただろうか? そう俺は、カラスに突かれた。 極限まで膨れ上がっていた俺は、 パアンッ!! と、弾けとんだ。 俺は、まっさかさまに地上に落ちていった。 ふよふよだのふわりふわりなんてもんじゃない。 加速度を増しながら、まっしぐらに落ちてきたんだ。 よく助かったなって? 俺が落ちた先は、たまたま俺の家だった。 俺の家は代々布団屋だったんだよ。 ふわふわの羽根布団や、絹を張った厚い綿布団。 やわらかい羊の毛の布団。 屋根を破って、そんなものが積み重なった上に落ちたんだ。 お袋がどんなに驚いたことか。 俺の頭には、でっかいたんこぶができてた。 それより大事だったのは、俺の腹が、でっかく破れていたことだ。 でも、俺のお袋は偉かった。 たまたまそのとき、裁縫をしていたおふくろは、持っていた針と糸で、すばやく、俺の腹の皮を縫い合わせてくれたってわけさ。 船乗りが話し終わった後、私は笑えばいいのか、怒ればいいのかわからなかった。 これは、思いっきりほら話じゃないか。 てっきり、猛獣とか、海獣とかと戦ったと思ったのに。 こんな嘘に騙されるほど、馬鹿だと思っているんだろうか? それとも、子供だと思って、からかってるのかな? 船乗りの顔を見たけど、そこには何の表情も浮かんでいなかった。 私はもう一度、傷跡をしげしげとよく眺めた。 『あれっ?イボ?』 さっきは気が付かなかったが、傷口に、小さくて白い半透明な物が付いている。 船乗りも私の視線に気が付いて、それを軽くひねって見せた。 『ああ・・・ちょうど、俺が落ちたてきたとき、お袋はボタンを縫い付けていたんだ。 あせっていたおふくろは、ついうっかり傷口に、ボタンも縫いつけちまったんだよ。』 ワイシャツに付いているよな、小さな小さなボタンがひとつ、船乗りの指に挟まれてくるりと回った。 ジャンル別一覧
人気のクチコミテーマ
|